「駅弁」食べ歩き20年・5000個の放送作家・ライター望月が、自分の足で現地へ足を運びながら名作・新作合わせて、「いま味わうべき駅弁」をご紹介します。
人や会社が新たな一歩を踏み出すとき。それは、計画的な一歩もあれば、追い込まれて踏み出す一歩もあります。広島駅の駅弁を手掛ける「広島駅弁当」は、大きな需要を見越して新たな工場で一歩踏み出した直後、思わぬ天災の影響を大きく受けました。そこからの新たな一歩は、予期せぬ成功によって導かれたと言います。広島駅弁当「復活」のストーリーをトップに伺いました。
「駅弁屋さんの厨房ですよ!」第34弾・広島駅弁当編(第4回/全6回)
広島市の郊外を走る芸備線のディーゼルカー。太田川の支流・三篠川に新緑と朱色の車体が映えています。芸備線は伯備線の備中神代(岡山県新見市)から分岐、備後落合で木次線、塩町で福塩線と接続し、三次を経て広島に至る約160kmのローカル線です。ただ、中国山地の山間部では利用者も本数も極めて少ない区間があり、今後のあり方が検討されている地域もあります。地域の公共交通は「建て直し」が待ったなしの状況です。
この芸備線・矢賀駅前に本社を構える広島駅弁当株式会社。戦後は旅行ブームも相まって、特産の牡蠣や穴子をはじめとした、数々の名物駅弁を送り出してきました。しかし、平成11(1999)年に就任した中島和雄代表取締役は、会社の「建て直し」に奔走したと言います。平成の初めごろ、広島駅弁当には一体、何があったのか? 中島社長に就任前後のことを伺いました。
●広島アジア大会と阪神・淡路大震災で、悲喜こもごもの1990年代
―広島駅弁当が、広島駅南口、新幹線口を経て、いまの矢賀駅前にやって来たのは、平成6(1994)年のことですね。
中島:この年、広島では首都圏以外では初めてとなる「アジア大会」が開催されました。広島駅弁当はアジア大会の弁当公式サプライヤーに認定されました。新幹線口にあった工場の生産力では、大会関係者への弁当供給が難しいことから、いまの場所に新工場を建設して移転しました。これによって西日本屈指の規模の工場として、1日最大5万食を製造できるようになったんです。
―広島のアジア大会は、大きな飛躍のきっかけになったハズですが……。
中島:(バブル経済の崩壊後)横ばいとなっていた経営が立ち直ったと思ったその矢先、平成7(1995)年1月17日に阪神・淡路大震災が起こって、山陽新幹線が4月まで3ヵ月近く運休してしまったんです。当時の広島駅弁当は駅弁と催事の弁当が主力でした。なかでも約8割を占めていた駅弁の売上が激減してしまいました。このため、新たに稼働したばかりの工場が過剰設備となって、大きな債務超過が生まれてしまったんです。
●どん底での社長就任、多くの人に助けられた会社の「建て直し」!
―そのタイミングでの社長就任、相当なご苦労がありましたね。
中島:父亡きあと、広島駅弁当は、国鉄(JR)OBの方がトップに就いてきました。しかし、JRは(民間会社ですので)債務保証できないとなりました。このため、創業家出身である私がやるしかないということで、社長に就任しました。すでに専務として経営に関わってはいたんですが、ものすごいストレスで、網膜剥離になって入院したこともあります。それでも、2001年の創業100年を目前に、孫の代で幕を下ろすわけにいかないと立ち上がりました。
―ミレニアムから21世紀となる時期、どうやって会社の建て直しをしていったのですか?
中島:いろいろな人に助けていただきました。私の同級生にスーパーの専務がおりまして、そのなかでテナントをやってみないかと提案を受けて、初めて惣菜売場に出店いたしました。数百円の惣菜は作ったことがなく不安でしたが、予期せぬ形で大きな売り上げを出すことができました。一方、「惣菜工場をやめる」と話していた先輩に「私のところで受け継がせてもらえないか」とお願いして、さらに売り上げの上積みを図ることができました。
●ハレの日だけの駅弁店から、365日・広島市民の胃袋を支える会社へ!
―惣菜に続いては、どんなことにチャレンジされたのですか?
中島:高齢者向けの「配食事業をやってみないか?」とお声がけいただきました。そこで、新潟・四国・名古屋の業者を視察してノウハウを学び、これに駅弁業者として培った技術と伝統を加えて展開を始めました。その後、広島に拠点を置く大手企業向けの社員食堂や病院・福祉施設の給食、さらには学校給食といったフードサービス事業へと、拡張していきました。現在は配食専門の工場も稼働させています。
―会社を建て直していくなかで、見えてきたものは何ですか?
中島:(これだけの設備を持っている以上)工場は「稼働率」だということです。稼働率が安定すると収益が安定するんです。それならば(お客様が接する)機会の少ない駅弁や催事の食事だけでなく、1日3食×365日=計1095回の食の市場に挑戦していこうと。ドラッカー(経営学者)の「予期せぬ成功ほど、イノベーションの機会となるものはない」という言葉を、多角化という形で実践していったんです。
広島駅弁当の前身、中島改良軒が創業して100年を迎えた平成13(2001)年は、中島社長が就任して、会社の建て直しの真っ只中にありました。この年、広島県山岳連盟と広島駅弁当が共同開発し、いまも販売されている駅弁が、「山のおべんとう」(800円)です。パッケージにも中国山地を彷彿とさせるのどかな山の景色が描かれており、売り上げの一部は、山岳環境保全基金として山岳環境の保全に役立てられる旨が記されています。
【おしながき】
・おむすび(梅・昆布・広島菜炒め) 海苔
・焼き鮭
・出汁巻き玉子
・蒲鉾
・鶏照り焼き
・煮物(こんにゃく、蓮根、筍、椎茸、人参)
・さつまいも甘煮
・たくあん
海苔で巻いた梅・昆布・広島菜の3つのおむすびと、焼き鮭・蒲鉾・出汁巻き玉子に代表される幕の内系のおかずがコンパクトな折に入った「山のおべんとう」。その名前の通り、山へのお出かけにもピッタリの駅弁です。経木の箱に入って、環境にも配慮されています。新幹線に乗って短時間移動する際も、短時間でしっかりお腹を満たせるのが嬉しいもの。発売から20年を超え、すっかりロングセラー駅弁の仲間入りです。
芸備線・三次以東で主に活躍するレールバス形の気動車も、快速列車などで1日数回、広島駅に顔を出します。後ろの赤い車両は庄原市の有志の方が企画、募金で実現したラッピング車両「カープ号」。地域の皆さんが鉄道に関心を持ち、どのような未来予想図を描いていくのかが、芸備線「復活」への一歩になると信じたいものです。ちなみに、広島駅弁当は、市民球場時代から弁当を販売しており、近年はカープの主力選手とコラボした弁当でも人気を集めています。マツダスタジアムはもちろん、広島駅売店でもコラボ弁当と出逢えることがあるのが嬉しいですね。
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連載情報
ライター望月の駅弁膝栗毛
「駅弁」食べ歩き15年の放送作家が「1日1駅弁」ひたすら紹介!
著者:望月崇史
昭和50(1975)年、静岡県生まれ。早稲田大学在学中から、放送作家に。ラジオ番組をきっかけに始めた全国の駅弁食べ歩きは15年以上、およそ5000個!放送の合間に、ひたすら鉄道に乗り、駅弁を食して温泉に入る生活を送る。ニッポン放送「ライター望月の駅弁膝栗毛」における1日1駅弁のウェブサイト連載をはじめ、「鉄道のある旅」をテーマとした記事の連載を行っている。日本旅のペンクラブ理事。
駅弁ブログ・ライター望月の駅弁いい気分 https://ameblo.jp/ekiben-e-kibun/