「日本最古の飛行機の設計図」も作成…国友一貫斎が築いたもの
公開: 更新:
それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。
「国友一貫斎」という歴史上の人物をご存知でしょうか? 最近、新聞に「日本最古の飛行機の設計図が発見された」という記事が出て、話題を呼んでいます。
一貫斎が、近江国(おうみのくに)国友村…現在の滋賀県長浜市国友町に生まれたのは、1778年。江戸時代の後期に当たります。ここは、大阪の堺と並ぶ火縄銃の一大産地でした。「国友鉄砲ミュージアム」の館長、吉田一郎さんに伺うと…。
「江戸幕府から火縄銃の注文を受けると、鉄砲の部品を鉄砲鍛冶が分担して造り、最後に組み立てるという分業制でした。さらに鉄砲造りに欠かせないネジの開発や、銃の機関部には真鍮という新金属も使っています。言ってみれば日本の近代工業発祥の地で、ここで生まれた一貫斎は、鉄砲造りの名手として名をはせていたんです」
転機が訪れたのは39歳のとき。その腕を見込んだ彦根藩が、慣例を破って直接、一貫斎に大筒の鉄砲を発注します。それに怒ったのが、鉄砲鍛冶を束ねる4人の「年寄」。幕府に訴え、一貫斎は江戸に呼び出されます。
しかし一貫斎の高い技術力が認められ、訴えていた年寄側が敗訴に。江戸滞在は足かけ6年でしたが、一貫斎は無駄に過ごしません。
その間、オランダからの西洋文明に触れて、さまざまな発明をします。まずは、オランダから伝わった空気銃の玩具(おもちゃ)を元に、連発式の「空気銃」を造り上げます。
万年筆のような「懐中筆」…いわゆる筆ペンや、「玉燈(ぎょくとう)」というランプのような照明器具。また、アーチェリーに似た鋼の弓「弩弓(どきゅう)」や「水揚げポンプ」など、いろいろな発明をしています。
「一貫斎の発明は他にもまだあるはず」と、長浜市の調査団が生家に眠っていた文書を調べたところ、今回の「飛行機の設計図」が見つかったのです。
発見された10ページの冊子。そこには鳥の形をした飛行機のパーツが描かれ、「檜板を皮にて包也(つつむなり)」「板を次第に薄く削る也」などと、材質や加工方法も説明されています。
木馬に乗った人間が翼を羽ばたかせて飛ぶ構造で、現存する飛行機の設計図としては国内最古です。しかし、設計図の通りに造っても飛ぶことはできないそうです。
なぜ一貫斎は空を飛びたかったのか…。そこには、天体への憧れがありました。
一貫斎は、江戸の大名屋敷で目にした舶来の望遠鏡を元に、日本で最初の「反射望遠鏡」を造りました。太陽の黒点や月のクレーター、木星の縞模様、土星の環も観測しています。一貫斎の望遠鏡は、西洋の望遠鏡をしのぐ高性能でした。
天保7年。一貫斎が58歳になったこの年、全国的に天候不順で「天保の大飢饉」が起こり、国友村の村人たちも餓死寸前にまで追い込まれます。
一貫斎は晩年、天体観測に明け暮れていましたが、それを断念し、愛用していた望遠鏡を各地の大名に売り、村人を救いました。苦労して造った望遠鏡でしたが、村人たちの役に立ったことを喜びました。「天、遂に人の努力を無にせず」と叫び、神仏に感謝したと伝わっています。
63歳で亡くなった一貫斎。「宇宙まで夢を追った偉人」だと、吉田さんは言います。
「一貫斎がすごいのは発明だけでなく、設計図や解説書まで残していることです。それまでの職人は見て覚え、口伝えで技を残していましたが、一貫斎は設計図と共に文書化しているんですよ」
最後に、一貫斎の口癖があると吉田さんが教えてくれました。それは、『技は万民のためにある』。国友一貫斎こそ、技術大国日本の礎を築いた人物かもしれません。
■国友鉄砲ミュージアム
所在地:滋賀県長浜市国友町534
料金:大人300円、小中学生150円
営業時間:9:00~17:00(入館16:30まで)
定休日:年中無休(12月28日~1月3日のみ休館)
https://www.kunitomo-teppo.jp
番組情報
眠い朝、辛い朝、元気な朝、、、、それぞれの気持ちをもって朝を迎える皆さん一人一人に その日一日を10%前向きになってもらえるように心がけているトークラジオ