登山家・平出和也の登山哲学「生死を懸けた真剣な遊び」
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それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。
新型コロナウイルス感染防止のため、この夏の富士山は閉山。静岡県からも山梨県からも、山頂に向かう4本の登山道は、全て通行止め。富士山ファンの方は、さぞかしガッカリなさったことでしょう。
さて今回は、ある登山家のお話です。石井スポーツ所属の登山家、平出和也さんはこの度、登山界の「アカデミー賞」と呼ばれる「ピオレドール(金のピッケル)」を受賞しました。
去年(2019年)の夏、同じく登山家の中島健郎さんと2人で、パキスタン北部のラカポシ(7788メートル)に未踏の南壁から登頂したのが評価されたものです。
平出さんは2008年、北インドのカメット(7756メートル)南東壁を初登攀(とうはん)して、ピオレドールを初受賞。2017年にはパキスタンのシスパーレ(7611メートル)北東壁を中島さんと初登攀し、2度目の受賞。
そして今回の3度目の受賞は、もちろん日本人初の快挙です。
ピオレドールは、登山の世界で最も権威のある賞とされ、前年に世界各地で行われた登山のなかから選ばれるそうです。
ただ高い山に登ったということではなく、「未知への挑戦、より困難への挑戦」が評価の基準になると言います。今回は51隊がノミネートされ、そのうち4隊が受賞という狭き門。
平出さんと中島さんがアタックしたラカポシは、カラコルム山脈の名峰で、特に南壁からのルートは、ベースキャンプから山頂までの標高差が4000メートルもあると言います。ブロック状に積み重なった氷河は崩れやすく、なだれの危険が高いそうです。
そもそも登山家たちは、登山のルートとは考えておらず、未踏のままでした。こんな山にアタックした平出和也さんとは、どんな方なのでしょうか?
平出和也さんは1979年、長野県出身の41歳。生まれた諏訪郡富士見町は、八ヶ岳のふもと。標高900~1400メートルの山々に囲まれた高原でした。
小中学校時代は、剣道で長野県3位。高校時代から大学にかけては、陸上部で競歩の選手として活躍。日本選手権では10位の成績をおさめます。
ところが、大学3年生になるころ、平出さんはスタートとゴールを決めたコースで人とタイムを競い合う競技生活に、ふと虚しさを感じたと言います。
「何と言えばいいのでしょうか? 競技場のなかだけでなく、競技場を出ても強い人間でありたい。自分のそんな気持ちに気づいてしまったんです。人と競うのではなく、自分で全ての責任を負って戦いたい。そう思ったとき、目の前に登山がありました」
こう振り返る平出さんは、大学3年生から山岳部に所属。2年後にはヒマラヤ遠征に加わり、2005年にはインドのマッターホルンと呼ばれるシブリンに、パートナーの谷口けいさんと初ルートからアタック。成功はしたものの、平出さんはこの登山で右足の指4本を凍傷で失いました。
「こんな中途半端なことではダメだ! 今回は足の指で済んだけれど、登山は死ぬか生きるかの命がけの遊びだ。もっと真剣に遊ばなくてはダメなんだ」
生死を懸けた真剣勝負の遊び。これが、平出さんがつかんだ登山哲学でした。
「大きな地図を持っては、誰も登っていない山、未踏のルートを探すんです。2007年に1回目のアタックを試みて敗退した、パキスタンのシスパーレという7611メートルの山とは、長い付き合いになりました。2012年、2回目のアタックで敗退。2013年、3回目のアタックも敗退。そして2017年、4度目の挑戦で登頂に成功しました。振り返れば15年。15年かかって、ようやく登れた山でした」
途中の2015年には、パートナーの谷口けいさんを滑落事故で失いますが、平出さんを山に呼び戻してくれたのは、やはりシスパーレだったと言います。
「彼女もきっと、シスパーレに登りたかったことだろう……」
雪と氷と猛吹雪に閉ざされた極限状態、全ての欲望や煩悩を拭い去ったとき、登山家は1本のロープでつながれたパートナーと、どんな夢を見るのか? 平出さんは、こう答えてくださいました。
「いまのパートナーの中島健郎には、2人の子供がいます。吹雪のなかに彼だけでなく、奥さんや2人の子供の顔が一緒に浮かんで来るのです」
このまぼろしが、何としても無事に帰ろうという力の元になるのでしょう。平出さんはいま、来年(2021年)のK2西壁の新ルートからの無酸素登頂に備えて、水泳、ランニングなどのトレーニングに励む毎日を送っています。
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