63年後の墓参り……ベトナム残留日本兵と家族の悲願をつなぐ
公開: 更新:
それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。
8月15日、「終戦の日」……ニッポン放送では、特別番組『戦後75年 私の八月十五日~俳優 高倉健の想いがつないだ人々の証言~』を朗読でお送りしました。「あさぼらけ」でもご紹介したところ、放送後、さまざまな戦争体験のメールをお寄せいただきました。
そのなかに、父親の仏領インドシナ体験のお話があり、それを聞いた方が、札幌に住む友人(湯山英子さん)に伝えました。
湯山さんは北海道大学の研究員で、日本とベトナムの経済関係の歴史がご専門。特に戦前・戦時中のベトナムにおける、日系人のビジネスを研究していらっしゃいます。
もともとベトナムに関する資料が少なく、個人の回想録でも重要な資料になるので、可能であればその資料を見せて欲しい……と、番組に問い合わせがありました。
残念ながら、希望に沿う資料を提供することはできませんでしたが、湯山さんの研究についてお聞きしたところ、「そんなことが戦後のベトナムで起きていたんですか?」という、意外な事実を伺うことができたのです。
「詳しく書かれた本が最近出版されたので、ぜひ番組で!」と教えていただきました。ここからは、小松みゆきさんの著書『動きだした時計 ベトナム残留日本兵とその家族』からご紹介させていただきます。
1945年(昭和20年)8月15日、日本が降伏し、ベトナムでも武装解除が行われ、引揚げ船で本国へ帰還して行きました。ところが、ベトナムに留まった日本兵や民間人が、700人以上もいたという記録が残っています。
日本に戻れば連合軍から戦犯として裁かれるという不安や、「空襲で家族はもう生きていないだろう」という諦めもあり、それならばベトナムに残って独立運動に力を貸そう、という日本人が少なくなかったのです。
ベトナムに留まった日本人は「新しいベトナム人」と呼ばれ、名前も変え、周囲に勧められて結婚し、子が生まれ、ベトナム人としてこの地に根を下ろしながら暮らしていました。
ところが、終戦から9年後の1954年(昭和29年)、ベトナム政府から残留日本人へ、帰国するようにと通達があります。
「何をいまさら!」
実は、そのあとに勃発したベトナム戦争で、日本は敵国アメリカの同盟国とみなされ、敵となってしまうのです。
「必ず迎えに来るから……」という言葉を信じて残された家族は、ひたすら帰りを待ち続けます。いつか必ず会える……その想いは、どんなに月日が経とうとも変わりませんでした。
その願いが叶うのは、63年後。2017年3月、天皇皇后両陛下が初めてベトナムを訪問され、ハノイ市内で残留日本兵の家族と面会。日本人の夫が帰国したあと、差別と貧困のなかで苦労して子供を育てて来たという、埋もれていた歴史が報道されました。
同年10月、残留日本兵の家族の訪日が実現し、夢だと思っていた墓参りや、日本家族との交流が実現します。訪日に際して、調査に協力したお一人が湯山英子さんで、北海道に帰った日本兵のお墓探しを、本の著者・小松さんから依頼されました。
「お墓は見つかりましたが、ベトナム人の息子さんが北海道まで来ることは、日程的に叶いませんでした。2年後の去年(2019年)9月に、家族や親せきがお金を出し合って、長年の願いだった父親の墓参りが実現したんです。そこに立ち合えた私にとっても、感動的な出来事でした」
湯山さんは言います。
「遺品のなかの日記や手帳の記録から、家族の絆を再確認したり、平和の尊さを実感すること、それを次の世代に伝えること……。とても大切だと思います」
ベトナム残留日本兵と、その家族。その実態を明らかにする調査は、これからも続きます。
■『動きだした時計 ベトナム残留日本兵とその家族』
出版社:めこん
著者:小松みゆき出版社「めこん」のホームページ
http://www.mekong-publishing.com
■小松みゆき
1992年、首都ハノイに日本語教師として赴任。
現在、ラジオ「ベトナムの声」シニアアドバイザー。
認知症の母親をハノイで介護したエピソードが、映画「ベトナムの風に吹かれて」に。
番組情報
眠い朝、辛い朝、元気な朝、、、、それぞれの気持ちをもって朝を迎える皆さん一人一人に その日一日を10%前向きになってもらえるように心がけているトークラジオ